蝦夷・アテルイ(阿弖流為)の解説「坂上田村麻呂の戦い」をわかりやすく

アテルイ(阿弖流為)

アテルイ(阿弖流為)とは

蝦夷アテルイは、平安時代初期(西暦800年頃)に東北での軍事指導者だった人物。生年月日は不明。
『日本紀略』によるとアテルイを「大墓公」と呼ぶ。「大墓」(たのも)は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明。
ただし、田茂山(奥州市水沢区羽田付近)とも考えられている。

この頃の東北には蝦夷(えみし)と呼ばれた縄文文化の流れを汲む部族社会があり、族長を代表として血族を中心とした100人程からなる共同体が点在した。
狩猟民族として狩・漁・稲作などを「共同」で行い、暮らしていたよう。


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724年に多賀城に陸奥国府が設置されると、日本の中央政権(朝廷)は軍事力で、東北の陸奥地方の蝦夷をも支配下に置こうとする。
アテルイは、ヤマトの帝(ミカド)を中心とした律令(中央集権)国家が、自分たちの文化・文明と違っていることを認識。
各地に分散している村々をまとめ「蝦夷連合」を組織化して、自らの土地・文化・文明を守るために、ヤマト朝廷と戦う決意をした。
朝廷側の資料に出てくるだけで13年の間、アテルイは戦っている。
朝廷と蝦夷の間では、このように武力衝突が起きたが、朝廷側(官軍)は何度も撃退されていた。


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767年、伊治城(栗原市)が造営される。
774年、蝦夷が桃生城(ももう)を襲撃。
蝦夷だった伊治 呰麻呂(これはり の あざまろ)は、ヤマト政権に仕えていたが、反乱を起こす。
780年、伊治 呰麻呂(これはり の あざまろ)の反乱。

有名な戦いとして「巣伏の戦い」がある。
789年、東北に遠征。胆沢の入口にあたる衣川にまで、朝廷軍を駐屯させていた征東将軍・紀古佐美が、789年5月末に、桓武天皇の叱責を受けて進軍を開始。
北上川の西から4000が川を渡って東岸を進んだ。
アテルイの居のあたりで蝦夷軍約300と交戦。
当初、朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追撃し巣伏村(現在の奥州市水沢区)まで至った。
しかし、蝦夷側約800が加勢し反撃。更に東山から蝦夷軍約400も現れて、朝廷軍は後方からの挟み撃ちにあった。
その為、朝廷軍は敗走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出し、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。


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その後、791年に大伴弟麻呂(おおとも の おとまろ)が征夷大使に叙任され、武官の坂上田村麻呂も副将軍の1人として、ヤマト政権の指揮を取る事になり、遠征の準備に入った。
坂上田村麻呂は、それまでの軍制を改革し、防具を強化するなど、兵士の質を改善した。
そして、793年は大伴弟麻呂と坂上田村麻呂らが遠征開始。坂上田村麻呂は副使ながら中心的な役割を果たし794年6月には功績を上げている。

796年、坂上田村麻呂は陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して、東北方面の軍事行政すべての権限を任され、多賀城にて更なる蝦夷討伐の準備を進め、797年には征夷大将軍も兼任する。
坂上田村麻呂は蝦夷に対して、帰順する者には、新たな土地を与え生活を保証し、律令農民との交易も認めた。その一方で、抵抗する蝦夷に対しては、断固たる態度で臨んだ。
しかし、これがヤマト政権の兵士損害を最小限に留める結果にも繋がり、部下や兵士の信頼も多く得る事になった。

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801年には、桓武天皇から節刀を受け坂上田村麻呂は、大規模な蝦夷征討を行い、胆沢(いさわ)地方を平定。胆沢(現在の岩手県奥州市)と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から蝦夷軍が一掃されたとされ、胆沢地方を開拓し、稲作を普及させた。
『日本紀略』には、802年4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されている。
坂上田村麻呂はアテルイとモレを連れて7月10日に平安京へ凱旋。
坂上田村麻呂は、大墓公阿弖利爲(アテルイ、たものきみあてりい)と盤具公母礼(モレ)の2人を救い「彼らに東北運営を任せるべき」と提言したものの、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、8月13日に河内国の植山にてアテルイとモレは処刑された。
処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山(すぎやま)」「杜山」の3通りあるが、どの地名も旧河内国内には存在しない。しかし、植山は現在の枚方市宇山と推定されていて、その隣町の牧野町にはアテルイの首塚とされる古来からの伝承で「蝦夷塚」と呼ばれる石碑(牧野公園)が立っている。
しかし、その後の調査で、その塚は更に200年古い年代の作であり、古代の古墳であった事がわかり、最新調査では、植山説は否定されている。


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そして坂上田村麻呂は、翌年802年には再び陸奥に出向き、胆沢城として城柵を設置。

胆沢城

803年には北上川と石川合流地近くに「志波城」としても城柵を造営。
志波城は10年後水害で、以後、文室綿麻呂によって徳丹城が南10km付近に築かれ、約150年間、蝦夷の監視を行った。
 
815年の記録によると、胆沢城には軍団の兵士400人と健士300人の合計700人が駐屯。兵士は60日、健士は90日の交替制で、常時700の兵力を維持していた。
しかし、戦費がかさんだことからか、以後、蝦夷に対しての大規模な攻略作戦は実施されていない。

岩手県内の蝦夷の最大遺跡として、奥州市水沢区に杉ノ堂遺跡がある。江戸時代までは、安土呂井村(アトロイ)と呼ばれた場所だ。
跡呂井(アトロイ)とも呼ばれ、アテルイが存在した推定場所とされている。


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また、京都清水寺創建に尽力した坂上田村麻呂の縁もあり、清水寺にはアテルイとモレの追悼碑が1994年に建立された。

アテルイとモレの追悼碑

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コメント

  • コメント ( 2 )

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  1. 山田 久夫

    724年に多賀城が置かれたとする説は、江戸時代に発掘されたとする多賀城碑文による桃で、続記などは異なる記録を残している。
     続記に多賀が初出するのは737年、この年に大野東人が城廓を作り始めたことが記されている。
     多賀城として初出するのは780年のアザマロの乱の際に国司等が逃げ込んだ。城と記されていても、国府や鎮守府を意味するものではない。養老律の縁辺諸郡人居条を読めばご理解頂けると思います。
    征討軍は多賀・玉造城から賊地に入れずに居るあいだいに賊に多賀・玉造の城は賊に襲われ、賊は刈田郡まで南下した。
     賊の南下を防ぐため防禦が築かれた。通称阿津賀志山防塁とよばれている。この防禦より北側に東越山(あつこしやま)と呼ばれる砦遺構がある。それが賊の要害である。形勢が出羽の大室要害の如くであると天皇が述べている。
     賊の要害を超えるためには阿武隈川に沿った渓谷を進まなければならない。賊の要害を避けるため東岸の道を北上中に東の山中から賊が現れ挟撃された。官軍は川を渡り戻ろうとして多くの兵士が溺れ死んだ。生還者を導いたのが出雲の諸上とされている。諸上はその功績で太枝という姓を賜わった。太枝という地名は現在、阿津樫山界隈と京都に見られるとまった。
     多賀城を陸奧国府とする説は誤りである。大同五年五月十一日の太政官府に陸奧国府の位置情報がきされている。その情報によれば、陸奧国府は信夫郡界隈にあったと言える。
     胆沢、玉造、多賀の諸城は陸奧国の賊地の城塞であることが弘仁六年八月二十三日の太政官符に明記されています。
     多賀城を陸奧国府とする説は根本的に誤ています。続記、日本後記等の朝廷関係の記録を悉く読んで頂ければ納得されると思います。
    太枝氏の一部は後に大江氏

  2. 山田 久夫

    夷大墓公阿弖流為は胆澤付近の人物ではないと思います。もし、胆澤の人物なら胆澤公阿弖流為だと思います。
    磐具公母礼も同様です。宝亀十一年に伊治城で起きた反乱は八世紀に陸奥国に組み込まれた麁蝦夷の住む刈田郡以北伊治城付近までの広範囲に入植した人々までが逆賊となりました。逆賊は移住した農民、大陸からの移民、先着移民等です。刈田郡南端部に馬ノ墓と言う地名があります。馬は駒、駒は高麗、つまり、馬の墓とは渡来系移民の墓所を意味すると考えられます。坂上刈田麻呂忌寸も渡来系移民で忌寸の呼び名を改めるようねがいでています。坂上田村麻呂は刈田麻呂の子孫ゆえ渡来系人であると言えます。夷大墓公阿弖流為は高麗系移民の子孫と考えれま。刈田郡馬ノ墓と地続きの所に伊具があります。伊具は磐具と同じとかんがえられ、夷大墓公阿弖流為と磐具公母礼が連合し朝廷軍北上を阻止した。陸奥国衙は信夫郡にあり征討軍は刈田郡、伊具の逆賊に通行を妨害され多賀城へ向かうことができなかった。延暦八年に征討軍は阿武隈川東岸を北上中に阿武隈川猿跳峡谷部で逆賊に挟み撃ち、東山から威され阿武隈川へ逃れ多くの溺死者をだしました。一部は川を渡りました。そこが兜渡と言うところです。詳細なち形図には兜渡ときされています。阿武隈急行に兜駅がありますが,兜渡に因む駅名だとおもいます。国の特別史跡多賀城は続日本紀に記された多賀城ではありません。多賀城は賀美郡部内の城です。名取郡近くに多賀城が在るはずがありません。多賀城碑は贋物です。神亀元年に大野東人は按察使や鎮守将軍に任命されていません。続日本紀参照。